60歳からのプラチナ世代、そしてプラチナ予備軍の皆さん、本日は「我ら、プラチナ世代」のサイトを訪問していただきにありがとうございます。はじめまして。旅行家の南里章二と申します。
この度、主催者である同窓生の知人から依頼を受けて、旅行(世界史研究)家としての私自身の拙い人生の歩みを紹介させていただくことになりました。新しいサイトの第一回掲載と云うこともあり、責任の重さで一杯ですが、お読みいただくことで少しでもお役に立つことがあれば幸いと思っております。
宜しくお付き合いの程、お願い致します。
甲南中学校時代は生意気盛りの悪ガキで、当時流行の西部劇に憧れ、ギターを奏でながらウイスキーをショットグラスで飲むことも覚えた。タバコも吸い始め学業を怠り、学校では不良児の烙印を押されてしまった。
中学最終学年時、この生活を反省し断ち切るために立候補した生徒自治会に当選し、高校では委員長を任されるまでになった。文化祭の運営にも夢中になり、自らも演劇や音楽で舞台に立った。そのため学業だけはおろそかにしたままであった。
かたや中学一年時に入部していた山岳部では、毎年夏冬春の北アルプスでの登山合宿に参加しつつ、部員が少なく廃部寸前であった状態を立て直し、高校二年時にはリーダーを任されることになった。登山が面白くて仕方なかった時期でもあった。
高校最終学年となり、いままで怠っていた学業の遅れを取り戻すため、ようやく勉学にも励むようになった。少しずつ成績が上がっていくことが嬉しかった。穏やかな気持ちで修学旅行を終え、卒業式では生徒代表として答辞を詠ませていただき、自治会功労賞までいただいた。
高校山岳部の春山合宿。五竜岳遠見尾根のテント場にて(中段右端が南里)
大学時代は理学部に進み、山岳部に所属しながら、高校時代にかじった演劇を本格的にやってみたいと思い学外で劇団を結成し、自ら脚本を書き、演出を引き受けた。そのため中高時代はあまり読まなかった本(哲学、歴史、文学、戯曲など)を片端から読み漁り、映画館にもよく出入りした。
1960年代後半当時は学生運動が活発な時期であったが、学内での討論会では運動に励む同期生たちを、運動を起こす前にもっと本を読んで勉強しろ、と批判したこともあった。
勉強熱が高じていて就職活動には全く身が入らなかった。せっかく理学部を卒業するのだからと就職をせかす両親のもとを離れざるをえなくなり、アルバイトに励みながら大学近くに下宿しながら自立生活を始めた。
卒業と同時に理学部を離れ文学部社会学科の大学院に進学した。大学院修士課程時代は広く歴史、哲学を視野に入れた応用社会学を専攻し、少人数のゼミで英語やドイツ語の外国語文献にも多く触れながら、奥行き深い学問の面白さを十分に味わわせていただけた時期であった。
学生時代に熱中した演劇活動を続けるという選択肢もあったが、4年次にS.ベケット(アイルランド出身の劇作家、ノーベル文学賞受賞)の『ゴドーを待ちながら』を読んで圧倒され、私の芸術的才能ではとても及ばないと自覚し、学問の世界の初心者となった。
修士論文のテーマは「映像によるコミュニケーション」とした。学生時代に没頭した演劇表現活動を社会学という学問の中に生かす方法を模索するなかで、劇場と舞台には未練があったが、やはり多くの人々に目に触れるのは当時、カメラが普及し身近になった写真と家庭内で視聴するテレビ、もしくは映画館で上映される映画の映像であった。これを創作する側と鑑賞する側とのコミュニケーションと捉え、そこに作用する心理的、社会的メカニズムを研究しようという結論に落ち着いたからであった。
甲南大学は神戸市東灘区の六甲山の麓に位置する。 1919年に文部大臣を務めた平生釟三郎が中心となって伊藤忠兵衛(伊藤忠創業者)等の協力のもと甲南中学校を設立したのが始まりで創立100年を迎えた。
(1970年代当時の甲南大学)
1968年に結成した劇団「からす」。
第2回「神戸カーニバル」でのパフォーマンス。劇団「からす」は甲南大生と他大学の学生を含めた混成メンバーだった。
当時のKobeにはオープンでハイカラな趣に加えて、時代を先取りした「神戸カーニバル」の開催や、情報誌「神戸からの手紙」の発行など、地域の文化を発信、育てる土壌があった。
神戸カーニバルでギリシャ劇風の衣装を着けた南里と自作の戯曲脚本。
当時ベトナム戦争に対する批判の声が高まり学生運動も活発化していたが、ニーチェやサルトルの哲学に傾倒していた私は戦争を起こす人間の不条理さに関心を持ち、現代社会をギリシャ悲劇の世界と重ね合わせながら描こうとしていた。
大学院時代に教員免許も取っておこうと母校の甲南高校に教育実習に行ったことをきっかけに、大学院修了時に高校時代の恩師が、母校で社会科教員にならないかと声を掛けて下さった。そのまま博士課程への進学を考えていたのだが、経済的には苦しかったのでここで僅かながらも蓄えをつくってからと考え、3~4年の腰掛けのつもりで母校の教職についた。
不良時代の私を知る同級生の方々からは驚きの声が漏れてきたことだろう。社会科の担当科目は世界史であった。学部、大学院と続けて西洋史のゼミに参加していたので何の違和感もなかった。毎日の予習に次第に面白味を感じ始めていく。授業や修学旅行、クラブ活動を通して数歳下の教え子からは少し年上の兄貴のように慕われ、教員生活も楽しいものだと思い始めた。
もちろん他校の教員の方々と同じく職場での苦労も決して少なくはなかったが、後述のように海外の旅を教材に授業を進め始めると思いのほか生徒の反応に手ごたえを感じることができて、結局教員生活は退職まで41年間続くことになる。
図書委員の卒業写真 女性は司書教諭と図書館職員。2013年の退職時は図書館長をしていた(左端上)
教員生活2年目の夏休み、世界史の授業で行ったこともない外国の世界をあたかも行ってきたかのように語らねばならない自分に不自然さをも感じ、思い切って45日間のヨーロッパ旅行にでかけた。
費用も乏しくひどい貧乏旅行であった(以後定年まで殆ど全て単独貧乏旅行)が、窮屈なグループ旅行と異なる個人旅行の自由きままな楽しみを心ゆくまで味わうことができた。
この旅で撮ってきたエジプト、ギリシャ、ローマの写真をスライドにして教室でスクリーンに映し出すと生徒の反応がまるで違ってきた。寝ぼけまなこで仕方なく講義を聞いていた生徒の表情が実に生き生きし始めてきたのだ。
これこそ私が大学院時代に研究していた映像の送り手と受け手の相乗作用という「映像によるコミュニケーション」の実践であり、世界史教育の最も効果的なものの一つであることは間違いない、このまま教員を続けていこうという確信を持つに至った。
さらに翌夏からは中東、アフリカ方面にも出かけこの傾向はますます強まることになる。旅は最初から通訳なしであったが、場数を踏むたびに語学力を磨いていくことが出来た。
またこの頃から、講義のために勉強し始めたイスラーム世界の魅力に取りつかれ、学校の仕事が終わると毎日のように神戸にあるイスラームのモスクに通い始め、アラビア語とクルアーン(コーラン)を神戸在住のムスリム(イスラーム教徒)の方に教えていただいた。これが10数年後の「メッカ巡礼の旅」に繋がることになる。
モスクのミナレットから聞こえるアザーンと共に生活が始まるカイロの人々の朝は早い。
クフ王のピラミッド(ギザ)
明け方暗いうちに高さ137mの頂上まで上った。(今は禁止)
サッカラの階段ピラミッド
前2650年頃の建造物、メソポタミア出身の天才的建築家インホテプの設計によるもの。砂が柔らかく車では近づけない。
王家の谷入り口付近にあるハトシェプスト女王の葬祭殿。女王の側近で愛人とも言われる建築家センムトが設計を行った。(前1500年頃)
特にエーゲ海に沈む夕陽が美しい。
クレタ島のクノッソス宮殿。
迷宮伝説で有名。この迷路を伝って英雄テセウスガ怪獣ミノタウロスを退治したという伝説が残っている。宮殿内に描かれた壁画の色彩が殊の外美しい。(前2000年頃)
古代ローマの発祥の地と言われる カンピドーリオの丘。 この広場はミケランジェロの設計で知られる。
パラティーノの丘。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの妻リヴィアの住居があった。
ローマ市内にある世界最小の国家、バチカン公国の中心サンピエトロ寺院。毎年クリスマスには教皇が主宰するミサがこの広場で行われる。
ローマ中心部ヴェネツィアにあるビットリオ・エマニュエーレII世記念堂(1911年完成) 1885年サヴォイア朝によるイタリア王国を成立させた王の偉業を讃えるため建造された。
メッカ巡礼に続いてメディナへ向かう。右側のアフメッド(バングラデシュ人)が終始巡礼初心者の私を指導してくれた。(1996年、サウジアラビア)
また中高、大学時代を通して続けていた山登りの実績を買われ、山岳部の顧問となり、生徒と同じく重荷を担ぎ、危険個所は先頭に立つなどして北アルプスなどの夏春の登山合宿も続けていた。
勤めて数年目の秋頃、所属していた甲南山岳会の会合に出席したところ、ヒマラヤ登山の話が持ち上がりいきなり隊長に任命されてしまった。翌夏7名の隊員を引き連れて「甲南キシュトワルヒマラヤ登山」を実施することになった。
標高六千数百mの未踏峰への登頂は、頂上直下まで迫ったがこの時は残念ながら敗退せざるをえなかった。不成功の原因としては、ザイル(ロープ)などの装備が僅かに足りなかったこと、経費節約のため現地で購入した食糧(あまり質が良くなく、量も不足がちであった)などがあげられる。しかし下山を余儀なくされたことは隊長である私の責任であろう。(この原因をクリアーして2年後に若手の隊員たちが登頂に成功した)
しかし登山活動終了後に登山隊員の一人と共に実施した麓に広がるインド最北西部の秘境「ザンスカール」での調査活動は私の本格的な文化人類学(現地調査を基本とする民族、地域研究)的調査活動の出発点となった。
インド最北西部の秘境
ザンスカール
ワンラ村、頂上にゴンパ(寺院)があり、平地は農地として使うため、住居は斜面に建っている。
私の文化人類学的調査活動は大学院時に学んだ応用社会学の延長線上にあり、「ザンスカール」に続いてフィールドとして選んだのはアフリカ、サハラ砂漠であった。
ヒマラヤ登山の2年前に実施した砂漠縦断の旅は現地の商品輸送のトラックに便乗したものであったが山登りに優るとも劣らぬ困苦を極めていた。現地の人々と労苦を共にすることにより現地の社会情勢を垣間見る機会を与えられた。何よりも今まで別個に考えていたアフリカの黒人世界とアラブのイスラーム社会がダイナミックに混合した世界の存在にとても興味をそそられた。
かつてアラブのイスラーム社会はアフリカ世界を支配下に置いた時、黒人たちを奴隷として扱うこともあった。その後黒人たちがイスラームを受け入れはじめ、アラブ人たちも黒人たちの知恵に学ぶようになる。次第に両者は融合し対等な立場で交流を深めていく。時には激しい対立もあるが、常に双方が思慮深く融和を推し進めていく。そのようにして現在のサハラ世界が形成されたのだ。
その後私は、エチオピアでの飢饉救済ボランティア活動などアフリカ各地を巡る旅を続けながら、三度にわたってサハラ砂漠縦横断を重ねた。
この旅は必ずしも最初から研究テーマであるキャラバンとの出会いを求めての旅ではなかった。
私のアフリカへの憧れは多くの方々と同じように壮大なアフリカの自然と野生の世界であった。アフリカの大地に触れるために、キリマンジャロ登山、コンゴ川下りに続いてギニア湾沿岸から地中海沿岸のアルジェまで、サハラ砂漠の縦断を含めた全行程約四八〇〇キロの旅を試みようとしたのであった。
現地のトラックを乗り継いで移動したことで旅を共にした人々、出会った人々たちの生活力のたくましさと知恵に多くのことを教えられた。
泥にタイヤを取られるトラック、サンドマット(鉄板)をしいて脱出する作業には、有料で乗客となった私たちも容赦なく駆り出された
インサラー(アルジェリアのオアシス)、この日の気温は50℃を越えていた。
ダカールとマリ間を走る列車の車内、30時間も立ちっぱなし。トイレを済ませるとまた同じところに立つ。
トラックの下で食事(ライスに干し肉と乾燥野菜)をする。10日近く朝昼夕と同じものを食べる。
3回目のサハラ行の目的は、トンブクトゥ、ガオに長期滞在して役所などに保管された古文書やフランス植民地時代に記されたアザライと呼ばれる塩を運ぶラクダのキャラバンの記録を調べることであった。
さらにアザライに参加した人々への聞き取り調査、サハラ全域に及ぶ長距離交易の拠点の確認、ニジェールのテネレ砂漠を横断するトラックによる物資輸送など総合的な研究を目的とするものでもあった。
1986年にはパリにあるフランス高等社会科学研究所のアフリカ研究センターで客員研究員として「サハラ長距離交易」を研究する機会を与えられた。
毎日、研究所のF.プイヨン教授が示唆してくれた仏語論文を、パリに点在するあちこちの研究機関を訪ねてコピーを入手する。安ホテルの屋根裏部屋で数か月間、10年ほど前から独学で始めた慣れないフランス語に四苦八苦しながら読み漁る日々が続いた。
出発前にはその後のサハラ世界での現地調査と併せて約一年間の休職を恐る恐る申し出たところ、当時、高校の校長がもと原子物理学の研究者であったので飲み込みが早く即座に了承していただいていた。
毎年夏休みの約50日間の全てを海外の旅に充てる私に対して批判的な先生方も多くおられたが、次第に私が担うべき夏休みの仕事(クラブ活動付き添い、日直、補習など)を代行して下さる先生も現われるようになった。歴代の校長からも逆に「今年はどこへ行かれるのですか。」と尋ねられることもあった。家庭では毎夏休み中、妻と子の母子家庭となり申し訳なかった。
現地調査の報告と論考はその後幾つかの学術誌に掲載された。またこのアフリカでの現地調査の体験は、同時に長年携わった世界史教育に新しい視野を開くことにもなり、私の世界史研究の基礎にアラブ、アフリカ間の交易関係を中心としたアフリカ史を位置づけることが出来るようになった。
シンシン(マウントハーゲン・ショー)ニューギニア
この日は朝暗いうちから、広い野外の会場周辺に、地元の人々が部族ごとに集まり、顔や体に入念な化粧を始める。自ら鏡を見ながら自分自身の顔に派手な原色の模様を描いていく。中には向かい合って互いの顔に化粧をする人たちもいる。男女とも輝くような茶褐色の肌に極彩色のペインティングが美しく映える。(中略)
化粧に充分な時間をかけた後,歌と踊りの打ち合わせのために小グループごとに集まり始める。入場の順番を待つ間も各グループは、皆で踊りを合わせるための調整に余念がない。
午前十時頃入場門から最初のグループが入ってくる。グループの規模は大小さまざまであるが、小さいものでも三十人は下らない。極楽鳥の羽根で作った揃いの髪飾りをつけ、腰にはスカート風の色鮮やかな布をぶら下げ、さらに葉っぱや貝殻、鳥の羽根などで体全体を装飾する。クンドゥと呼ばれる太鼓や笛を演奏しながら、大声を張り上げて歌い、かつ調和がとれた踊りを披露しながら次々と行進して会場を何周もする。
それぞれの部族ごとの強烈な誇りが爆発する。歌と楽器の競演が会場をゆるがす。時間の経過とともにさらに熱気は盛り上がり、見物客との一体感もどんどん高まっていく。この祭典は息もつかせず夕方まで続いていった。
拙著『世界史を歩く 新全世界紀行』
第13章 太平洋を巡る世界 より
先生の夢は何ですか? 生徒の問いかけるような眼差しに促されて、全ての国を訪問したいと・
本格的に教職に復帰して新たに大きく感じ始めたことは、90年代前半の日本経済のバブル期の中で豊かな生活に安住し、逆に無力感にさいなまれていた生徒たちのことであった。
もうすでに年の差が20年を超えた私は生徒にとって若い頃のような兄貴的存在ではなくなってしまった。いわば大人として生徒に指導指針を示さねばならない。事あるごとに生徒に夢を持つよう伝える機会が多くなった。そのとき私の表情をのぞき込む生徒が口に出さないまで「では先生の夢は何ですか」と問いかけるようなまなざしを強く感じ始めた。
私の夢とは一体何だろうと自問し始めた時に真っ先に浮かんだのが、幼い頃切手の国名を調べるため世界地図を眺めながら世界中の国に行ってみたいなと思ったことだった。その時すでに私は120ヵ国前後の国を回り終えていたが、全世界の国々を訪れるなどとんでもないことだと思い込んでいた。しかしその頃から世界に190数か国あるすべての国を訪れてみたいという夢が急に目の前に去来し始めた。
すでにいくつかの学術論文を学会誌などに掲載してもらっているので、これらをまとめて博士論文として提出し、大学教員への道を模索するという選択肢もあり、いくつかの大学からはオファーが来ていたが、大学教員への道を断念しても世界中のすべての国を訪れるという夢を追うことの方がはるかに大きくなってきた。
世界史教育と研究を続けながらその10数年後にはこの目標を達成することが出来た。複数の新聞で報じられたことで、ある教室では拍手で迎えられ、全校生徒に講演する機会も与えていただいた。その後現在までに新独立国を含む世界の240以上に上る国と地域、400以上の世界遺産を巡ってきた。
190ヵ国目
ルアンダ(アンゴラ)
2013年、無事定年にこぎつけた。毎年海外の旅を続けたため預貯金はゼロとなっていた。教職を退くころからオファーを受けて始めたカルチュア―講座、社会人講座も阪神間を中心に現在10講座近く担当している。
ここでの受講生はご年配の方々が多く、学生時代に学んだ世界史に飽き足らず、より広く深い世界史を学ぼうとする意欲の強さには驚かされることがある。大半は私よりも人生経験が豊富で貴重なご意見を示唆していただくことも度々である。
講座終了後にはミーティング、懇親会などを行い、出席されている方々が意気投合すれば日帰り旅行、海外旅行などが実施されることもある。
このような方々に対してご期待を裏切らない世界史の講義を続けていくためには、現役教員であった頃よりも広く深い知識と経験が求められる。そのために今までに訪れたことのある国々を再訪するなどして研究を深めて新しい情報を得なければならない。
退職前後から今までにはきちんと数えた訳ではないが再訪した国は80ヵ国を越えている。ただ年を重ねるにつれてその数への執着は次第に薄れ、世界史研究のより本筋を捉えていこうとするようになってきた。現在に至ってもまだまだ学ぶべきことは多く、果てしない道を命尽きるまで歩み続けねばならないことを実感している。
世界史を語る南里
退職記念講演前に新聞の取材を受けた時の写真
大塚美術館(徳島県鳴門市、西洋絵画の陶板を展示)への日帰り旅行。受講生の方々に柄にもなく西洋絵画約100点を解説。
先述のように私は今、世界史に関する10講座ほどのカルチュアーセンター、社会人講座等の教室を担当している。この2年ほどはご承知のように、コロナの拡大の中で自由な海外渡航はほぼ不可能となり、不本意ながら蟄居を余儀なくされてしまっていたが、少しずつ収束の兆しが見え始めている。
すでに世界中の国の全てを訪れてきたが、まだ訪れていない地域、都市、村落は山ほどある。ただの旅行という段階はすでに経験済みなので、いささかの冒険性を伴った(特に辺境の地を視野に入れた)海外旅行はまだまだ行きたいところはたくさんある。
ただもう無理が効かない年齢となり、体力の衰え、それの伴う気力の減退は否定できないが、年相応の冒険旅行はまだまだ可能性が開けているように感じている。
私は50代後半から60代後半にかけて、アルメニアとトルコの国境に聳える「ノアの箱舟」伝説の山アララト山(5165m)の登頂、チベット仏教とヒンドゥー教の聖地、チベット西部に聳えるカイラス山〈6658m〉周囲を巡る巡礼ルートの踏査、アフガニスタン、パキスタン国境のワハン回廊を見下ろすイルシャド峠(4880m)ヘの踏査、東アフリカ沿岸部スワヒリ世界へ探訪、南米パタゴニアのトレッキングなどをこなしてきた。
それに近いようなことで70代半ばを迎えてもできそうなことは山ほどある。さらに今までおろそかにしていた国内の旅、それも今まで訪れた海外の世界と深い関わりのある所など、枚挙に遑(いとま)がない。これらの世界を訪れては新しい世界の広がりをカルチュア―などの受講生の方々に語り続けたく思っている。
イルシャド峠(4885m)
パキスタン、アフガニスタン
国境からみたワハン回廊
若い頃からご自分の人生、生活を築き上げるため、大変な努力を重ねてこられたことと思います。多くの方々が待ち望んでおられた第二の人生を迎えられようとしておられることでしょう。この第二の人生こそ、皆様方の生き様が真に問われるときでしょう。
私の講座にも多くの年配の方々が参加しておられ、講座の後、食事会やミーティングの機会を持つことがよくあるのですがどなた御一人としてご自分の過去の人生を誇らしげに語る方はおられません。
特に企業などで管理職についておられた方はご自分の業績を語りたがるものでしょう。しかしそれについては殆どの方が沈黙を守っておられます。時にはふと漏らされる方もおられますが、第二の人生を送る中ではみな対等の立場に立っていることはよくご認識されています。
コミュニケーションをとり合う中で、会話、立ち居振る舞い、周囲への気遣いなどからその方の人生の片鱗が垣間見られることがよくあります。
以前、私の講座にある方が参加され、講座後の食事会ではご婦人方に上手にビールをすすめておられました。非常に上品な柔らかい物腰でその方がおられると場がとてもなごやかになり、皆が楽しく過ごすことができました。数年後にその方がどなたでもご存じの有名大手酒造メーカーの取締役社長さんであったことを漏れ聞いて驚いたものです。
残念ながら2年ほど前にお亡くなりになってしまいましたが、今でもその方の印象が胸に強く刻まれています。私もその方のように振舞いたいなと思いますがなかなか思うようにはいきません。第二の人生の理想的な生き方を見せていただきました。
この第二の人生こそ、皆様方の生き様が真に問われる時だと思います。
プラチナ世代予備軍の若い世代の皆さんへ。今まさに第一の人生の真っ只中におられ、悪戦苦闘されていることと存じます。第一の人生における理想的な生き方などはまったく語れることではありません。それぞれの方々が今自分のおられる立場で最大限の努力をされていることが、何よりも評価されるべきことなのでしょう。
お役に立つかどうか分かりませんが、私が教員退職直前にある教育サイトから受けたインタビューで若い先生方へのメッセージとして次のようにお答えしたことを紹介させていただきます。
仕事の充実度を高めるために続けることが好ましい二つのCがあります。Channel(通路)とCycle(循環)です。
Channelとは本来の仕事とは異なる、別世界の次元です。仕事以外のことですから趣味でも運動でも何でもかまわないわけです。要は仕事を離れて没頭できる世界のことです。
Cycleとは仕事の世界とその別世界の精神的な相互交流のことです。例えば楽器の演奏が好きな方は、そこで磨くノウハウを仕事にも役立てるし、逆に仕事から得たノウハウを腕を磨くことに生かすことが出来るということです。
お持ちになるチャンネルが複数であればなお良いのですが大半の方はとてもそこまでの余裕を作ることは難しいでしょう。一つのことで十分です。そして仕事を離れる時期になれば次第に今まで大切に養ってきたChannelに重心を移し替えていけばいいのです。お仕事を続けておられる方はそのままで大丈夫です。
私の趣味は中学時代から続くカントリー&ウエスタンですが、演奏仲間(写真)とは結成以来40年近く続いています。もう一つは先程記した山登りです。
若い世代の皆さんには、趣味の世界を中心に各方面に交流の輪を広げつつ、いずれ訪れるプラチナ世代に向かって、充実した時間と生活をお送りいただけるよう願っています。
会社名 |
アクティブ・ソーシング・ジャパン株式会社 |
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代表者 | 代表取締役社長 森崎利直 |
設立年 | 2015年4月 |
資本金 |
2000万円 |
所在地 |
本社 〒214-0013 神奈川県川崎市多摩区登戸新町 358番地エンゼルビル302号 西日本支社 〒530-0043 大阪府大阪市北区天満一丁目8-25 |
連絡先 | TEL 0120-22-4826 Mail info@konoyubitomare.me |
事業内容 |
60歳以上のプラチナ世代が健康で快適、そして充実した日々を過ごせる社会・経済環境の実現 プラチナ世代向け商品・サービスの企画開発、および販売するための仕組み作りと運営 プラチナ世代向け情報提供と情報交換、および人的交流を目的とした仕組み作りと運営 経営コンサルティング業務および付帯する業務全般 |
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