60歳からのプラチナ世代、そしてプラチナ予備軍の皆さん、本日は「我ら、プラチナ世代」のサイトを訪問していただきにありがとうございます。 はじめまして、75歳にしてまだまだ現役サラーマンの辻本 隆と申します。
この度、主催者である同窓生の知人から依頼を受けて、私自身の拙い人生の歩みを紹介させていただくことになりました。本サイトの第一回掲載が大旅行家の南里君と云うこともあり、第二回は私でいいのか?と恐縮しています。
何か少しでもお役に立つことがあれば幸いと思っておりますので、宜しくお付き合いの程、お願い致します。
1948年1月
大阪府高石市羽衣に長男として生まれ、地元の公立小学校、中学校に進学。
1962年 甲南高校に入学
1966年 甲南大学経営学部入学
1970年 大学卒業後、アメリカペンシルベニア州にある大学に3年次として編入入学
1972年 日本IBM社に中途採用で入社
2003年 沖縄県に転勤となり単身赴任生活開始
2007年 定年退職後、(株)沖縄教育出版に入社
2009年 個人事業主としてマーケティングコンサルの仕事を行う
2010年 キョウダイ(株)に入社。
2013年(株)アイセック・ジャパンに入社。再度沖縄県にて単身赴任生活開始。
2015年 福井事業所設立の為、福井県若狭町に勤務。
2019年 沖縄本社に戻り、2023年10月現在も週5日、単身赴任勤務中
日曜日の遊びは近くのテニスコート横の原っぱでのチャンバラだった!
子供の頃、父の楽しみは日曜日に親戚や会社の仲間とやるテニス。
夕食時にはビールを飲みながらのテニス談議に花が咲いた。
そんな訳で父親と一緒にテニスコートに行くと親戚の子供達も遊びに来ていて、テニスコート横の原っぱでもっぱらチャンバラごっこをしたものだった。 そして、チャンバラの刀がテニスのラケットに代わって行くのは自然な流れだった。小学校高学年の頃から試合が出来るようになり、テニスが面白くなり始め毎日曜日が来るのが待ち遠しくなった。
小学校時代の最後には学級委員、生徒会長に
人生最初の集団生活はいきなり小学生から始まった。世間慣れしてないので戸惑うことも多かったが、運動神経が良かったので学年が進むにつれ色々なスポーツ、特にドッチボールや野球で徐々に力を発揮、次第に周りからも一目置かれる存在となった。
6年生では学級委員、生徒会長にも推薦され、年1回の運動会では先頭でプラカードを持ち行進する役目も行うようになった。 そんな経緯で集団の中でも個人としてのアイデンティティを確立出来てきたように思う。
中学は近くの公立中学に入学した。我々の世代は所謂「団塊の世代」、中学には3つの小学校から入学しており、1組50名で22組まであるマンモス中学だった。各小学校の生徒にはそれぞれのカラーがあり面白いなぁと思った。特に気性が荒く、不良の生徒が多いのはその内の1つの小学校からの生徒だった。
この中学校には硬式テニス部は無く(軟式テニス部はあったようだが・・・)、もっぱらテニスの先生は父や父の仲間であり、且つ試合相手でもあった。 中学時代の思い出は、台風が来るたびに祖母を含め一家で土蔵の蔵に立てこもり、ローソクの灯で過ごしたこと。庭では大きな松の木が根こそぎ倒れていた。また第二室戸台風が大阪を襲い、学校に登校したら教室の一方の壁が無くなって青空が見えていた。
高校は両親が薦める甲南高校を受験することになった。本人から直接聞いた訳ではないが、父はテニスで有名な高校へ息子をと言う事で甲南高校を選んだんだと思う。
テニスの強い甲南高校に入学し早速テニス部に入ったものの、2面のコートに100名くらいの部員がおり、一日わずか5分~10分くらいの練習に嫌気がさし、浅野君、柏熊君、鳥丸君等と早々に退部。一緒に辞めた連中で甲子園テニスクラブに入り、高校卒業までここでクラブテニスをした。
高校の授業が終わると毎日甲子園テニスクラブに行き、一緒に辞めた浅野君やクラブで知り合った仲間たちと練習、試合などを夕暮れまで行った。体育会に所属していないので高校総体他の大会に出られないため、全国各地で行われているオープンな試合に出たが、これと言った戦績を収めることは出来なかった。
高校の時代に「パンチョ(Pancho」と言う名前で呼ばれるようになった。これは当時のプロテニスプレーヤーで「パンチョ セグラ(Pancho Segura)」(南米エクアドルの選手)の名前からとられたもの。彼も私もラケットを両手で持ってテニスをする両手打ちスタイルだったからだ。今ではラケットを両手で持つ選手は珍しくないが、当時はめったにいなかった。この両手打ちも大学入学と共に普通の片手打ちに変えた。
甲南高校は4クラスだったが、その内の1クラス分は外部の入試で入ってきた私の様な生徒で、やはり当初は甲南幼稚園、小学校、中学から入ってきた生徒とはカルチャーギャップが感じられた。
特に恋愛だとか、流行りの服装だとかの面では随分進んでる感じがあった。今思えば、この頃の自分の性格はどちらかというと引っ込み思案で色々な人とオープン、積極的に接するタイプではなかった様に思う。
将来はテニスのプロ選手になるとの想いはちょっぴりあったが、当時の日本のテニスの世界では、プロ選手もプロを目指す選手もおらず、それは夢のまた夢レベルの話だった。
1966年、当初大学テニス部に入部する気は余りなかったが、ある日テニス部から電話があり、「新入学生のテニス部見学会をするから、遊びにおいで!」風のノリでの誘いがあり、大学テニスコート(テニス部のコートは学校から徒歩20分くらい、国道1号線を渡った兼松江商のテニスコートを借りていた)に行った。コートには甲南高校テニス部出身者、その他のテニス経験者が集まっていた。 そして先輩テニス部員がおもむろに「全員集合!整列!番号!」と言う掛け声で、端から順番に番号を叫ぶ! これで有無を言わさず入部となってしまった。
入部してからは兼松江商のテニスコートでほぼ365日 朝9時から17時まで、休みは雨の日とお正月のみのテニス生活が始まった。毎日コートが主たる大学生活の場で、授業は必修科目のみにしか出させてもらえず、授業に行く時は学生服に着替えて、コートから学校に行き、授業が終わるとまたテニス着に着かえて練習、練習の日々。従って同期の学年の皆とキャンパスライフを楽しむと言う大学青春時代とは全くもって疎遠な生活の4年間だった。
最低限の出席を取る学科だけ出席し、他の学科は先輩から借りたノートや教科書を読んで自習。ゼミには殆ど顔をださなかったけど恐らくゼミの先生は体育会系の人間だからと多めにみてくれていたのかも・・・。それでも一応問題なく卒業できた。
甲南大学テニス部とはこんなところ・・・Part 1
一年生は「奴隷」、4年生は「天皇」と言われる体育会系の世界。一年生は上級生より1時間早くコートに行きコート整備をせねばならない。家が大阪の南の方だったので、南海電車、地下鉄御堂筋線、阪急電車を乗り継いでコートまで通うの結構つらかった。
1年生は自分のテニス練習以外は全てダッシュによるボール拾いで体力を鍛える?練習でコートに入っていない先輩連中はコートの周りに立っているが、その足元にボールが転がってきても決して拾ってくれない。当時のテニスシューズは1~2週間で穴が開いた。ラケット(木製)は3ヶ月位でお釈迦となった。
休みは雨の日のみの練習が続く。夜に雨の音を聞きながら寝るのが楽しみでそれは恥ずかしながら今でも続いてる。何となく安心してぐっすり眠れるのだ。
甲南大学テニス部とはこんなところ・・・Part 2
一年生の団結力が試されるのは、夜降っていた雨が朝に上がり、コートには水溜まりがある状況でだ。 水溜りの水を雑巾で取り除き、土を入れれば練習できると思われるが、辛い練習はしたくない。そんな時、一年生全員が集まり協議する。その協議内容はシンプルだ。
(1)コートを整備して練習できるようにするか?
(2)水溜りにホースで更に水を足し、今日は練習できない状態にするか?
(2)を選択した場合、上級生にばれたら、全員丸刈りの連帯責任となる。
(しかし、2)を選択すると決めたら、即動く。
上級生が来る道の見張り役、ホースで水を足す役に分かれて活動開始だ。そして来た上級生がコート状況をみて、「今日はコート状況が悪いので、今からランニング!」と叫んだ瞬間、「やったぁ!」と心の中で叫ぶのだった。
1967年の2月、若手のテニス選手を育成すると言う目的で日本テニス協会が 若手のテニス選手を2か月間オーストラリアのテニスクラブに送り込みプロのテニスコーチに教えてもらうプログラムに同期の神和住君(正面左 法政大学、後デビスカップ選手且つプロテニス選手)と坂井君(右隣 早稲田大学、後デビスカップ選手)等と一緒に参加した。当時のオーストラリアはテニス大国。デビスカップで優勝し、多くのプロ選手を輩出していた。
この2か月間の合宿の間にコーチから「近々テニス大会があり日本から来たあなた方も出場できるようにした」との話があり、何のテニス大会なのか余りよくわからないままそのテニス大会に出場したら、どうもそれは世界4大大会の全豪選手権(全豪オープンテニス選手権)の試合だった。
その時私は20歳と1か月、神和住君、坂井君よりも若かったので、世界の4大テニス大会に出た日本人の最年少出場記録となり、2009年?錦織圭選手がウインブルドンに出場するまで約50年間記録が破られなかった。私がそんな記録を保持していたなんて、全く知らなかった。
全国大学のリーグ戦は全国各地のブロックを勝ち上がる必要がある。関西ブロックでは1部校が4校あり、関学、甲南、関大、神戸(又は同志社)が毎年戦い、優勝すれば全国での戦いへ、最下位だと2部への入れ替え戦に臨まねばならない。試合はダブルス3試合、シングルス6試合の合計9試合全てBest of 5セットマッチで5勝した方が勝ちとなる。
この時代は関学が圧倒的に強く、甲南は常に2位の位置にあった。そして1967年春(大学2年生)のリーグ戦での関学との試合。相手の選手は全員オールジャパン出場経験者で揃えていた。かたや甲南はオールジャパン出場経験者2名と後はインカレ出場経験者だった。
1967年初めの頃から春のリーグ戦の為の練習が始まり、同期生の木本君(画像左)とダブルスを組むことになり、それから卒業するまでずっと組んでいた。恐らく当時の主将は同学年同志のダブルスペアーを作っておけば、卒業まで息長く強いペアーを維持できるからと考えたのではないかと思う。
初戦のダブルスNo.3の私と木本君が組んだダブルスは5セットのファイナルまで縺れ、10-8で甲南が勝ってから流れが甲南に傾き、初日ダブルスの対戦成績は2勝1敗甲南リード終了。そして運命のシングルス6試合も各試合で勝ち負けが拮抗、私のシングルスNo4の試合に全ての勝敗がかかった。相手の関学選手は1年先輩で、高校のインターハイで優勝した?経験の持ち主にファイナル逆転で関学を破った!この後の全国リーグでは慶応大学と全国1位を目指して戦ったが敗れた。
その後4年生のインカレ(全日本学生選手権)のダブルス準決勝では甲南高校テニス部出身で慶応大学テニス部の藤原君が組む柳原/藤原ペアーと戦い、勝って決勝まで進んだが、決勝で神和住/平井ペアー(法政大学)に敗れ準優勝に終わった。
また、4年生の全日本室内選手権のダブルスでは元デビスカップ選手の石黒さんと慶応の柳原君が組むペアーに勝ち、更に神和住/坂井ペアー(この時彼らはデビスカップを見据え、違う大学だったがペアーを組んでいた)にもファイナルで勝利した。神和住選手相手に初めてあげた大金星だった。更に次の試合は甲南大学先輩で現役デビスカップ選手河盛/小浦(関学卒)ペアーに敗れた。
ちなみに本サイトのTOP画像は、1969年春の関西大学リーグ戦の対関西大学シングルスNO.2の試合。相手は尾園選手でこの写真はマッチポイントの1つ手前のボレー。このポイントも取って勝った。
これまで紹介してきたように我大学時代はテニス、テニスの明け暮れで、他の同学年の皆が謳歌した様な大学生活とは疎遠だった。卒業間近にはテニス選手を優先的に就職させるいくつかの企業からのアプローチがあったが、大学卒業後も更に真剣勝負の社会人テニス生活を続ける気はさらさらなかった。今後はテニスで出来なかった世界、景色を見たいと思った。その一つはテニス選手としての就職ではなく、一般のビジネスマンの立場で働くことだった。
亡くなった親父が車好きだったこともあり、18歳の誕生日後即、自動車教習所で免許を取った。
1代目の車は当時テレビ番組の「ラットパトロール」(砂漠の中をジープでドイツ軍と戦う戦争物のドラマシリーズ)のジープに憧れ、中古の三菱ウイルスジープをアーミーカラーに塗装し乗っていたが、約1年で卒業した。
2代目の車を買うにあたり、ミニクーパーが欲しかったが、とっても高価で高値の華の存在だった。それならばと日本製のスポーツカーを買う事にし、ホンダS800か日産フェアレディ2000のどちらかまで絞り、同世代の親戚の親友に相談した結果、ホンダに決定した。
世の中は正に3C時代(カラー・テレビ、乗用車、ルーム・クーラー)、国民大衆車のパブリカが30万円台だったが、ホンダS800はその倍もした。納車されたのが1968年6月頃だったと思う。それ以来何と54年間も乗り続けている。
1970年代のアメリカは、ベトナム戦争も末期、北爆が続き、戦争反対、平和を願うヒッピーやマリファナを吸う若者の時代だった。
大学での2年間は大学の寮で過ごした。寮は基本2人一部屋。寮に住むことで多くの学生と知り合え、英語のコミュニケーション能力が早く身に着くと思ったからだ。
2年間の大学生活では、アメリカ人の底抜けに明るく楽しい大学生活を楽しむことが出来た。雪が降ると食堂から食器プレートを持ち出し斜面を滑るとか、その時代はフリスビーが盛んで、屋外、廊下でも投げ合うとか、プラスチックのゴミ袋を細長く捩じりより、木から吊るして下から火を点け、プラスチックが火で溶けて落ちる様を皆でビール片手に見るとか、また週末には各所で開催されるパーティに参加したりとか。また、アメリカの大学では必ず対抗する大学があり(早稲田と慶応の様な)、アメリカンフットボールの時期になるとこの対抗大学戦が行われると大いに盛り上がった。
留学中、殆ど本格的にテニスをやることはなかったが、ある時アメリカの友人があるテニスクラブを紹介してくれてそこでテニスをしたことがある。
その時、相手をしてくれたアメリカ人の若いテニスプレーヤーとシングルスの試合をすることになり、勝った。それから数か月後に別の処で会った見知らぬ人から「あのテニスクラブでのシングルスの試合を見ていた。凄い!」と言われ、アメリカ社会におけるスポーツ、スポーツ選手の立ち位置が特別の物であることを感じた。
入社後の職場は事務系で東京勤務を命じられた。1年間事務系の仕事をしたが、引っ込み思案な性格を変えたいと、営業ならば積極的になれるのではないかと営業職を希望し異動した。
日本IBM(株)では営業やSEになる為には約1年間の厳しいマーケティングスクールと言う学校に通い卒業試験をパスしなければならない。一応無事卒業(卒業できない人も居る)し、晴れて日本IBMの営業となった。
IBMでの営業の最初の 5年間は大阪の中小企業を相手に新規に小型のコンピューターを売る事だった。テリトリーは東大阪、平野区、八尾市、奈良県と言う広大な地域。主に飛び込み営業で新規のお客様開拓を行った。その後、大型機の営業部門に移ってからは主に地方銀行のお客様を担当することになった。中小企業への売込みは営業マン個人の営業力で売込むと言う感じであるが、大手の企業相手の営業はIBMのあらゆる組織を束ね、会社対会社、組織対組織でのビジネスと言う意味で、今までの営業スタイルと全く異なるもので大変勉強になった。
営業の給与はインセンティブ制度で動いており、ノルマを達成するか、しないかで年収が大きく変わる。そして年間ノルマ(毎年12月末が締め)を達成した営業は「ハンドレッドパーセント(100%)・クラブ」のメンバーになり、翌年の春には約一週間の海外コンベンション(ハワイ、香港、台湾など)と称するドンチャン騒ぎの営業会議に参加できるのだ! 幸いにも殆ど毎年ノルマを達成することが出来、結構なお給料をもらっていたので、父親が「IBMの給与は凄いなぁ!」とビックリしていた。
私はこのセールスセンターの運用に携わる部門に異動となった。今までFace to Faceの営業一本やりでやってきた者としては、このマーケティングと言う手法やCRMと言う仕組みによる合理的な営業の仕方は目から鱗が落ちる想いだった。当初千葉県幕張の事業所で立ち上げたこのセールスセンターの仕組みを更に広げるため、当時国を挙げて企業の誘致を行っていた沖縄県にて運用することとなり、2003年その立上げの為に沖縄のIBM関連会社に出向。沖縄の関連会社は日本IBMと沖縄のお客様が50%づつ出資した会社。当時の沖縄はコールセンター等の誘致で脚光を浴びていた。
日本IBMでは沖縄で出来る仕事を本土から切り出すことが盛んに行われた。(労働力コストが廉い上に国から助成金が出た)社内の事務作業、社内のテクニカルコールセンター業務、セールスセンター業務、お客様のコールセンターのアウトソース業務等の業務が社内の各部門から沖縄に移管され、それらの業務をまとめて運用するのが沖縄の関連会社の仕事であった。最盛期には沖縄の4か所のセンターを設立し、総計約1000名の沖縄の若い人々が日本IBMの社員として働いていた。私はその関連会社の社長として定年まで働いた。その後も色々な縁があり今も沖縄での延べ11年間単身赴任生活が続いている。
日本IBMに入社して以来多くの部門異動の誘いに対し、基本的に「Yes!」として素直に受入れてきた事で色々な経験をすることが出来、今思えば良かったのではないかと思う。
特にマーケティング部門のセールスセンターに異動となった時の上司は面白い人物で、大学卒業後はビジネスマンになるか?プロのダンサー(社交ダンスの)になるか?悩んだ末ビジネスマンになった人。セールスセンターの運営やセンターの雰囲気づくりの上で意気投合し、色々な事を自由にやらせてくれた。
また、沖縄でお客様のコールセンターをアウトソーシングして運営していた時に知り合った日本IBMから沖縄に赴任してきた人物が、早期定年退職して沖縄で起業した企業である(株)アイセック・ジャパン。現在私はそこで働いている。
さて、IBM時代のテニスの話。
私のテニスは学生時代にピークを迎えたと思っている。社会人になっても勝ち負けにこだわるテニスはやりたくなかったが、テニス自体は楽しくやりたいと思って今でも続けている。
そんな1973年頃IBMのテニス部から電話があり、楽しくテニスが出来る仲間がいるならいいなぁと入部した。そして入部して間もなく、何と2年上の慶応大学テニス部卒の古林さんがIBMに入社してきたのには驚いた。彼はデビスカップの候補までゆき、ダブルスではインカレ優勝と雲の上の人。結局彼と組んでIBMの冠を背負い会社対抗の実業団テニスの試合に出る様になってしまった。
その後IBMのテニス部は陣容も組織も確立されるようになり、部は全日本実業団で優勝する目標を掲げるとになった。と、言っても会社としては体育会系テニス部卒からピンポイントで入社させる方針はなく、私や前出の古林さんなどは例外のテニス部員だった。
従って、強者の体育会系大学卒の選手をそろえる全日本実業団リーグ常連の会社とは大差があったが、それでも最盛期にはその全日本実業団リーグの予選を戦う試合(勝てば全日本実業団のリーグに入れる)を2年連続で争う事もあった。
大阪時代の幼少の頃、祖母は日本画を習っており、母はその影響を受けたのかどうか知らないが絵に興味があった様だ。
父も亡くなった晩年は洋画を描くことが趣味になり色々な先生について絵をならっていたが、特に晩年は所謂一般的な絵より現代美術的な絵を多く描き、とても上手だった。
そんなこんなで小さい頃から絵画等の世界に触れてきたためか、学生の頃から絵、イラスト、ポスター等に興味を持ち始めていたが、テニスに忙しく本格的に絵を習ったことが無い。今も会社勤めが終わったら美術学校に通い、本格的に絵を習いたいと思っている。
IBM時代にマーケティング部門に異動してから、セールスセンターのオフィスの雰囲気を明るく、楽しいものにしたいと考え、たまたまペーパークラフトを作ってセンター内に飾ってみたら評判が良かったのでこの世界に没入し、現在も続けている。
精工なヤマハの大型バイク
ご存じハウルの動く城
「ホットロッド」と呼ばれる
カスタマイズされた車
実物大のライフル銃。
作家曰く、「外に持ち出すな!」
スターウォーズのフィギュアー
「ストームトルーパー」
ウォーリーを探せのウォーリー
アニメ、ファイナルファンタジーの
X Lulu
IBM時代に沖縄に人事異動となって、地元の中小企業の社長さんなどと付き合う機会も増え、親しくなった。そして定年間近になった頃、「株式会社 沖縄教育出版」と言う会社の社長さんに誘われ入社することになった。
この社長さんは九州出身、年齢は同い年。もともとは学研の営業マンだったが、沖縄で起業。最初は本の販売を行っていたが、38歳の時に癌になり一命をとりとめた。それから彼は健康の大切さに気付き、沖縄に多く自生する薬草をベースにした自然健康食品、サプリなどを通販する方向に転換した。そして経営のスタイルも売上げ至上主義から、働く従業員の幸せ、地域社会への貢献に舵を切った結果、業績はうなぎ上りに良くなった会社である。
そしてベストセラー本、阪本光司著「日本でもっとも大切にしたい会社」 の第2巻に掲載される程の素晴らしい企業風土を持った会社となった。
種々の理由より(株)沖縄教育出版を1年間勤めて、東京に戻り、しばらく個人事業主として主にマーケティングのコンサルをしていた。 その時代は正にリーマンショックの真っただ中。日本では多くの外国人労働者(特に自動車産業で働く東海地区)が真っ先に解雇となり、大きな社会問題になっていた。
そんな中、岐阜県庁で働いていたこれまた日本IBM時代の仲間から相談があり、「岐阜県内で職を失った多くの日系南米人に助成金を出して雇用するプログラムで良いアイデアはないか?ついては、南米に明るい人物を知らないか?」との事。
そこで、思い出したのが大学テニス部同期でダブルスペアーを組んでいた木本君。彼は卒業後ブラジルに移住し、現地で会社を立ち上げている。早速彼にメールしてみたら、何と今日本に居るとの事で早速何十年振りで東京で再会した。
彼の会社は外国人出稼ぎ労働者が本国の家族などに送金をする送金業務と南米食品を販売する仕事の会社である。 そこでこの案件を相談したら、とんとん拍子で話が進み、この助成金で岐阜県大垣市の駅前商店街に彼の会社の大垣事務所を開店することになり、言い出しっぺの私が大垣市に単身赴任することになった。 それから助成金期間終了までの2年間大垣駅前のホテルに滞在して店を運営した。
この仕事で多くの日系ブラジル人、ペルー人などの人々と交流することが出来たこと、そして岐阜県大垣市の文化や風土に触れることが出来たことは、その後の人生を豊かにしてくれる一つとなった。
岐阜県大垣市での仕事後、しばらく東京に居たら、今度はIBM時代のマーケティング部門で一緒に働いていた仲間から「沖縄で起業したけど一緒に働かんか?」と言う誘いが来た。
早速彼と東京で会ってみると、「聴覚障害者を支援するために、話し手の内容を沖縄で聞きながら入力、文字にしてインターネットでリアルタイムに配信する不思議な会社を立ち上げた」とのこと。面白そうだったし、社会貢献をすることがビジネスであると言うことで、再び沖縄の地に足を下すことになった。時2013年の春である。
この様なサービスを展開している会社は日本には唯一この会社しかないと言ってもよい。
この会社の強みは、会社のオペレーションセンターに音声が届き、インターネットの環境があれば、オペレーターが音声を聞きながらパソコンに入力し、日本中でも世界中でも場所を選ばず、正確な日本語の字幕(音声認識ソフトでは出来ない)をリアルタイムに全文配信表示することが出来る人的スキルリソースを抱えている日本唯一の会社と言うことだ。
この会社の面白いところは、この様な独創的なサービスがIT会社にも拘らず、極めてアナログな仕組み(人が入力すると言う)で運用されているところ。そして耳の聞こえに問題がある人達のサポートをすると言うお金だけでなく、社会に貢献する事に喜びと、それに共感する従業員によって支えられているところである。
私自身としては、社長もIBM出身で気心が知れていること。上下を問わず誰とでもわだかまりなくコミュニケーションできるアットホームな企業風土や文化に根差している事が、この歳になっても働き続けていられる重要な要素であると感じている。
会社内での私の仕事は、一言でいえば「社長補佐」というところか!?
主に、新卒、既卒採用活動と入社してきた社員の初期研修、そして営業、マーケティング、社長に代わる対外とのお付き合い等々、何でもやるのが仕事である。
企業就職説明会会場のブースで
会社、業務の説明をおこなっているところ
(2023年)
沖縄県は気候も温暖でとても住みやすい処だけど、全国を相手にビジネスを行うにあたってネックになる問題がある。
それは夏から秋に来る台風。沖縄の台風は日本本土に来る台風と違い、暖かい海の水蒸気をタップリと吸い強烈で、また居座る時間が長い。そうすると音声を文字にするオペレーターが会社に通えなくなる。沖縄に台風が来たからと言って全国のサービスが止まる様では会社の信用に関わる。そのため会社は社長の出身地である福井県に新たな事業所を作り、リスクを分散することになった。
そこで社長が「辻本、悪いけど3カ月間でよいので、福井に行って事業所を立ち上げてきてくれないか?」と言った。IBM時代には地方銀行を担当して色々各地を回っていたが、裏日本には行ったことがなかった。「まあ3ヶ月位長くても半年、1年くらいなら行くのも良いか」と、沖縄の独身オペレーター男女12名を連れて2015年1月から福井県若狭町と言う小さな町にこれまた単身赴任した。結局福井県に4年間住んだ。
過疎化が進む裏日本の小さな町に沖縄の若い独身男女12名が来たから、町では大変な話題となった。当時の福井県知事を表敬訪問した時もこの話題で持ちきりだった。何しろ空から降り注ぐ雪を見るのが初めての連中。雪が積もった野原で大の字になって倒れこみ、写真を撮っていた。
また、沖縄の女性は無類の酒好きの人が多く、町中の居酒屋の閉店時間が速すぎると色々な店を梯子。それがまた町の飲み屋街では噂になっていたようだ。
結局12名の内、2名の女子が地元の人と結婚したので、過疎化が進む街に少しは貢献できたかもしれない。
住んでみるとどこも都、素晴らしい自然、文化と風土の地域。裏日本って随分遠いところだと思っていたが、大阪や京都からだと日帰りの距離にあることも初めて知った。
しかしながら、4年間も冬の間のあの鬱陶しい空と雪の元で単身赴任してみると、太陽が燦燦と降り注ぐ沖縄生活が恋しくなり、2019年春に再び沖縄の本社に戻り、今日もフルタイムでのサラリーマン生活を続けている。
住んでる人には判らないこの美しさ!
その1
敦賀市と舞鶴市を結ぶ小浜線(単線)の一両編成の電車が上中駅に到着する直前写真
住んでる人には判らないこの美しさ!
その2
住んでた団地から見た小浜市方面。沈みゆく夕日と道沿いの電柱のコントラストが美しい
住んでない人には判らないこの厳しさ!
番外編
住んでいる人も分からない木の中の仏様
番外編
福井県若桜町に住んでいた時、近くに諦應寺と言うお寺があり、その中の樹齢450年の木に彫られた仏様が有名だと聞いて行ってみました。誰が彫ったのか?どのようにして掘ったのか?とても興味深いものでした。また今後この仏様はどのようになってゆくんでしょうか?(2017年)
海に負けない美しい沖縄の夕日
海に囲まれた島国沖縄、透き通る海、真っ青な空。本土の人は沖縄は365日晴れた青空の日が続くと思っている様だが、全県の日照時間比較では下位の40位くらいだ。特に冬の間は天気が悪い。そんな中でも西の方に沈んでゆく夕日は美しい。(2019年)
沖縄の桜は「緋寒桜」と呼ばれている桜。赤くてソメイヨシノの様にハラハラと散らない。また寒い山の上の方から咲き始め、ふもとに降りてくる不思議な桜だ。 (2021年)
沖縄の「島バナナ」うまし!
沖縄では沖縄古来のバナナ「島バナナ」がそこかしこで自生?している。台湾バナナやフィリピンバナナよりは小ぶり。 味は甘さの中にほのかな酸っぱさがあるとても美味しいバナナだ。 (2023年)
沖縄のヤモリは鳴くのです
沖縄の海はオイラを呼んでいる!
沖縄に永く住むと、観光客が行く場所には滅多に行かない。誰も来ない海辺でまったりと読書をするのが、夏の週末の過ごし方だ(2020年)
住んでみたい沖縄の古民家
漆喰で固めた赤瓦の屋根。その上に家を守るシーサーが鎮座する沖縄の古民家。湿度の高い沖縄の気候でも涼しそうなたたずまい。中央にはご先祖様を祭る仏壇。
一度は住んでみたいなぁ~! (2019年)
我テニス人生の最高峰は甲南大学時代だった。この年になって今更シニアーの日本の頂点を目指してテニスをする気はさらさらない。沖縄では週末に気の合う仲間とテニスをするのが楽しい。那覇市やうるま市で多くのテニス仲間ネットワークが出來た。
やっぱり現代アートは
面白い!
色々なジャンルの絵やインスタレーションを見てきたが、やっぱり現代アートが面白い。何故ならば、現代アートは100人の人が鑑賞したら、100種類の感じ方があるところだと思う。沖縄「やんばるアートフェスティバル」にて(2022年)
公道を走ることが出来る
世界最小のバイクだよ
僅か31ccのバイクだけど、普通のバイクと全く異次元の乗り物である。簡単に車にも、列車にも積み込むこともできる。宅急便で送ることもできる。設計したのは元本田技研でバイクばかりを設計してきた人。同じバイクオーナー達とのツーリグもめちゃくちゃに楽しい!(2017年)
70歳で15年に及ぶマラソンを卒業
沖縄に赴任して、社員からの進言でいやいや出場した沖縄で一番大きい那覇マラソン(42.195kmのフルマラソン)を6時間の制限以内に完走し、それからマラソンにハマり、約15年間、沖縄中のマラソン大会に出場した。
地元のFM放送でゲスト出演
(株)アイセック・ジャパンでは毎週月曜日、夜6時から7時の1時間、FMうるまで「はいさいe-ミミ!」言うと番組を持っており、Youtubeでライブ配信されている。社長がMCで司会をし、ゲストとのトーク番組。時々ゲストとして出席している。(2023年)
昔の部下が急に畑仕事をすることになり、話を聞くと誰もやっていない沖縄古来の山葡萄を育て、沖縄で醸造しワインを作ることだと言われ、そのロマンに痛く賛同した。
栽培は完ぺきな自然栽培。実際に手伝ってみると、夏暑い中でも長袖、長ズボンに長靴で土、雑草、取り、虫などとの戦い、農業は大変な体力が必要であることが分かった。
しかし週末のハルサーで体力を使うことで、仕事のストレス発散や深い睡眠をとることが出来ている。(2021年)
日本IBMで働いていた33年間。事務部門、小型コンピューター営業部門、大型コンピュータ営業部門、マーケティング部門、セールスセンター運用部門、関連会社への出向など様々な部門で働いたことで、社内外で色々な人々とネットワークを広げることが出来た。
また、日本IBM時代の後半は地方銀行を担当する営業マンだったこともあり、特に栃木県宇都宮市に8年くらい東京から通った。そして退職後は岐阜県大垣市で2年、福井県若狭町で4年、そして今も続く延べ11年間の沖縄と、単身赴任生活をしてその土地その土地の気候、文化、そこに住む人々や地域と触れ合うことが出来たことが我が人生の宝となっています。
そうした経験に加えて、仕事では出来るだけ色々な仕事を経験しましょう。
1つの仕事で少なくとも2〜3年は続けましょう。そうしないとスキルが身に付きません。
色々なところで働きましょう! そこで知り合った人達は、皆さんの今後の人生を豊かにしてくれると確信しています。
60歳以上で働く気持ちがあれば、積極的に働きましょう。毎日何もしないでボーッとテレビ等を見て過ごすことほど、人生にとって無駄なことはありません。
何をするにも「身体が資本」です。身体を鍛えましょう。特に下半身の脚力を鍛えましょう。私は55歳からマラソンを始め、15年間奔り続けました今は。週末にはテニス、畑仕事で体を鍛えています。
そして何かに没頭できる趣味を持ちましょう。私はペーパークラフト制作、美術館賞、車とバイクの運転とメンテナンス、観葉植物の栽培、FBへの投稿等色々な事をすることで感性を磨いています。 今からでは遅いという事はありません、まだ人生残り40年もあるのですから・・・
人は生まれてからずっと「選択、選択、選択」をし続けています。その選択の折に、素直に前向きに自分のやりたいことをやることで多くの経験を得ることが出来ます。
嫌なことを我慢せず、好きなものだけを食べ、好きなことだけをやっていく。
そのような生き方が、人生100年時代には求められるのではないかと思います。
残りの人生、自分のやりたいことをやりましょう!
辻本 隆 -------(Facebookより)
今日、梅雨明けした沖縄
朝から
2か月半振りの
ハルサー(畑仕事)
今日のお題は
パイナッポーに
海藻エキスの
アミノ酸を
散布すること。 甘みが増すとか・・・
ハルサー中
右足ふくらはぎ
ハチに刺された!
まぁ、これも
ハルサー仕事の勲章だな・・・-
-------------------photo: 久しぶりのハルサー
会社名 |
アクティブ・ソーシング・ジャパン株式会社 |
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代表者 | 代表取締役社長 森崎利直 |
設立年 | 2015年4月 |
資本金 |
2000万円 |
所在地 |
本社 〒214-0013 神奈川県川崎市多摩区登戸新町 358番地エンゼルビル302号 西日本支社 〒530-0043 大阪府大阪市北区天満一丁目8-25 |
連絡先 | TEL 0120-22-4826 Mail info@konoyubitomare.me |
事業内容 |
60歳以上のプラチナ世代が健康で快適、そして充実した日々を過ごせる社会・経済環境の実現 プラチナ世代向け商品・サービスの企画開発、および販売するための仕組み作りと運営 プラチナ世代向け情報提供と情報交換、および人的交流を目的とした仕組み作りと運営 経営コンサルティング業務および付帯する業務全般 |
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